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大阪地方裁判所 昭和58年(ワ)7719号 判決

原告

平沼昇

右訴訟代理人弁護士

松本勉

岩崎昭徳

被告

田中一雄

右訴訟代理人弁護士

小林淑人

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金三六五八万八九〇二円及びこれに対する昭和五八年一一月一六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (被告)

被告は、頭書住所地において田中外科病院(以下「被告病院」という。)を開業し、外科医療に従事しているものである。

2  (診療契約の締結)

原告は、昭和五六年一〇月二七日、被告との間で、腰痛の診療を目的とする診療契約を締結した。

3  (診療経過)

(一) 被告は、昭和五六年一〇月二七日、原告の診療にさいして、レントゲン撮影を実施したのち、腰痛治療のためとして、原告に対し、単に注射すると説明しただけで、硬膜外ブロック注射(以下「本件注射」という。)を実施した。原告は、本件注射実施中に、腰から右足にかけ激痛を覚え、かつ右足が痙攣を始めたので、被告に対し、本件注射を中止するように訴えたが、被告は、原告に対し、我慢するように言っただけで、本件注射を中止せずに続行した。

(二) 原告は、本件注射実施後、右足の痙攣、左右大腿部、腰部のしびれと激痛が残存したので、同月二九日被告に原告宅に往診に来てもらい、さらに、同月三〇日より同年一一月一一日まで被告病院に入院した。

(三) 原告は、右一一月一一日から大阪回生病院に転院し、同月一八日、同病院において腰椎間板ヘルニアの手術を受けた。

(四) 原告は、同五七年五月二一日、同病院を退院し、同月二四日より同年九月三〇日まで同病院において通院治療を続け、同年一〇月以降現在まで針治療などを続けている。

(五) 原告の残存後遺症は、身体障害者福祉法別表四の1(第六級)に該当し、その具体的現症は、下肢挙上テスト両八〇、右足背屈不能、母指の運動不能、底屈三、足背ないし足底に知覚鈍麻、右下踝跛行である。また、右原告の残存後遺症は、後遺障害等級表第一〇級一一号(労働能力喪失率二七パーセント)に該当する。

4  (原告の現在の症状の原因)

原告の現在の症状の原因は、本件注射によつて生じた馬尾神経の麻痺である。

5  (被告の債務不履行責任)

(一) (責任原因一)

(1)(ア) 被告は、医師として最善の注意をつくして検査を実施したうえで、原告の治療方法を決定しなければならない注意義務があるにもかかわらず、これを怠り、十分な検査を実施せずに本件注射を実施することを決定した過失がある。

(イ) 被告は、本件注射を実施するにあたり、医師として最善の注意をつくして適切な診療行為を行わなければならない注意義務があるにもかかわらず、これを怠り、本件注射を実施したさいに、注射部位そのものを誤つて脊髄に注射したか、または、注射部位は正しいとしても、注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内にまで到達させてしまつたか、あるいは、注射針を硬膜外腔内にとどめたとしても、注射針により直接神経に損傷を与えた、などの手技上の過誤をおかした過失がある。

(ウ) 被告は、初診時に原告の症状を腰椎間板ヘルニアの可能性を有する坐骨神経痛と診断したが、実際には原告の第三、第四腰椎間に腫瘍状のヘルニアが発生していた。このような場合、被告は、医師として、かりに右原告の症状を正確に認識することができなかつたとしても、原告をいつたん入院させて一定期間経過観察をしたうえで、原告の治療方法を決定すべきであり、かつ治療方法として注射を選択した場合は、注射液には副作用の少ないステロイド剤などを採用し、さらに注射にさいしても患者に異常を認めたときには注射を中止し、さらに適切な措置をとるなどして、できる限り神経麻痺の発生を防止すべき注意義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、初診時にいきなり薬液作用の強い麻酔剤(マーカイン)を注射液に含む本件注射を実施し、かつ本件注射実施中原告が再三異常な痛みを理由に本件注射の実施を中止するように訴えたのを無視して本件注射をそのまま続行した過失がある。

(エ) 被告は、本件注射を実施するにさいして、原告に対し、硬膜外ブロック注射を実施すること、その治療上の効果、注入薬品、本件注射により下肢の不全麻痺などの結果が発生する可能性があることにつき十分な説明を行い、本件注射を受けるか否かを原告の選択に委ねるべき注意義務があるにもかかわらず、これを怠り、原告に対し、注射を実施するとのみ説明して本件注射を実施した過失がある。

(2) (1)の各過失と馬尾神経の麻痺の発生との間には因果関係がある。

(3) よつて、被告は、原告に対し、右診療契約上の債務不履行に基づき、原告の被つた後記損害を賠償すべき責任を負う。

(二) (責任原因二)

(1) 被告は、本件注射実施後少なくとも三〇分間は、原告の症状の経過を観察し、かつ原告に神経麻痺の発生などの異常がみられたときは、適切な措置をとらなければならない注意義務があるにもかかわらず、これを怠り、本件注射実施後の原告の症状の経過観察を全く行わず、かつ原告に生じた4の神経麻痺に対する適切な措置をとらなかつた過失がある。

(2) (1)の過失と馬尾神経の麻痺の固定化との間には因果関係がある。

(3) よつて、被告は、原告に対し、右診療契約上の債務不履行に基づき、原告の被つた後記損害を賠償すべき責任を負う。

6  (損害)

(一) 休業損害 六二四万八五七二円

昭和五六年一〇月二七日から同五八年七月二六日までの六三八日間につき、昭和五六年度の三四歳男子の平均賃金(センサス)年収三五七万四九〇〇円を基礎に算出した。

(二) 入通院慰謝料 一六〇万円

入院 昭和五六年一〇月三〇日から同五七年五月二一日までの一七四日間(正確には二〇四日間であるが、原告は違算により一七四日間と主張した。)、被告病院ないし大阪回生病院に入院。

同五八年一月七日から同年四月二八日まで、マッサージをうけた。

通院 同五七年五月二二日から同年九月三〇日まで、大阪回生病院に通院。

同年一二月一日から同五八年四月二八日まで、針治療をうけた。

(三) 入院雑費 一七万四〇〇〇円 1000円×174=17万4000円

(四) 後遺症逸失利益 二一五六万六三三〇円

(1) 昭和五七年度の三六歳男子の平均賃金(センサス)年収 四三三万六一〇〇円

(2) 労働能力喪失率 〇・二七

(3) 新ホフマン係数 一八・四二一

(4) 計算方法

433万6100円×0.27×18.421=2156万6330円

(五) 後遺症慰謝料 四〇〇万円

(六) 弁護士費用 三〇〇万円

7  (結論)

よつて、原告は、被告に対し、債務不履行を理由とする損害賠償請求権に基づき、三六五八万八九〇二円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和五八年一一月一六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3(一)の事実のうち、被告が昭和五六年一〇月二七日、原告の診療にさいして、レントゲン撮影を実施したのち、本件注射を実施したことは認め、その余は否認する。

同3(二)の事実のうち、被告が同月二九日原告宅に原告の往診に行つたこと、原告が同月三〇日より同年一一月一一日まで被告病院に入院したことは認め、その余は不知。

同3(三)の事実は認める。

同3(四)、(五)の事実は不知。

3  同4の事実は否認する。

4  同5の事実及び主張は争う。

5  同6の事実は不知。

三  被告の主張

1  (原告の現在の症状の原因)

原告の現在の症状は、本件注射時既に原告の体内の少なくとも三か所に存在していた不完全かつ巨大な椎間板ヘルニアが本件注射に刺激されて脱出し、次第に神経を圧迫してきたことを原因として発生したものである。硬膜外ブロック注射の薬液の作用により、不可逆性の神経麻痺が生じたという症例報告は一例もなく、原告の現在の原因が本件注射の薬液の作用によるものと考えることはできない。

2  (被告の債務不履行責任の不存在)

(一) 本件注射すなわち硬膜外ブロック注射は、坐骨神経痛や椎間板ヘルニアによる症状の治療のために日常的に実施されているものであり、かつ本件注射後に生じた症状が本件注射の薬液の作用または椎間板ヘルニアの脱出のいずれに起因するものであるとしても、硬膜外ブロック注射により不可逆性の神経麻痺が発生するという症例はこれまで報告されていないのであるから、右症状発生の可能性のあることを本件注射時に予見することは不可能であるというべきであつて、被告が原告の治療方法として本件注射を選択したことにはなんら非難されるべき点はない。

(二) 患者の職業や日常生活を考えて、通院治療として硬膜外ブロック注射を実施することも決して誤りではなく、医療の現場において通常行われているところであり、本件注射は必ず患者を入院させた上で実施すべきであると決めつけることはできない。

(三) ステロイド剤の注射と本件注射すなわち硬膜外ブロック注射を比較すると、対症療法という点では同じであり、かつステロイド剤の注射の方が副作用が少ないとはいえず、さらに効果的な鎮痛作用を得るためには本件注射のように局所麻酔剤を注射液として用いるしか方法がないのであつて、痛みを訴え、その緩和を求めて来院した患者に対し、効果的な鎮痛作用を有するとされている本件注射を治療方法として選択することが非難されるべき理由はない。

(四) 本件注射実施時に、本件注射により不可逆性の神経麻痺が発生する危険性があることを予見することは不可能であるから、被告が、本件注射を実施するにあたり、本件注射により不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があることを原告に説明すべき義務は存在しないものというべきである。

(五) 本件注射の手技及び注射後の措置と本件麻痺との間に因果関係は存在しない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(被告)、2(診療契約の締結)の事実は、当事者間に争いがない。

二そこで、まず原告の診療経過について検討する。

被告が昭和五六年一〇月二七日原告の診療にさいして、レントゲン撮影を実施したのち本件注射を実施したこと、被告が同月二九日原告宅に原告の往診に行つたこと、原告が同月三〇日より同年一一月一一日まで被告病院に入院したこと、原告が同日から大阪回生病院に転院し、同月一八日同病院において腰椎間板ヘルニアの手術を受けたことは、当事者間に争いがない。

右争いのない事実に、〈証拠〉を合わせれば、以下の事実が認められる。

1  原告は、昭和五六年一〇月二七日、被告病院に受診し、診察にあたつた被告に対し、約一週間腰痛及び右大腿の後方の放散痛が続いている旨を訴えた。被告は、原告に対し、腰椎のレントゲン撮影を実施するとともに、神経学的検査として、大腿神経の緊張検査、ラセギュー試験(後記参照)を実施し、膝蓋腱及びアキレス腱反射の異常の有無、知覚障害の有無、足関節の背屈力の異常の有無を調べたところ、レントゲン撮影の結果は異常がみられず、神経学的検査の結果は、大腿神経の緊張検査(この検査の結果がプラスであれば、第一、第二腰椎間板ヘルニアの所見を示す。)の結果がマイナスであり、坐骨神経痛(坐骨神経支配域に放散する神経痛をいい、坐骨神経の構成にあずかる神経根は、第四腰神経根の前枝の下半部、第五腰神経根、第一、第二仙骨神経根及び第三仙骨神経根の前枝の一部である。)の診断に用いるラセギュー試験(坐骨神経の牽引による疼痛をプラス一ないし三の三段階に分類するが、プラスの大きいほど坐骨神経痛の症状が強度であることを示している。)の結果は、右がプラス二、左がプラス一で両側にラセギュー徴候が認められ、特に右側でラセギュー徴候が強かつたが、膝蓋腱及びアキレス腱反射(アキレス腱反射の低下は椎間板ヘルニアの所見を示す。)が正常であり、知覚障害はなく、足関節の背屈力(足関節の背屈力の低下は椎間板ヘルニアの所見を示す。)は正常であつて、知覚、運動とも神経麻痺の症状はみられなかつた。被告は、右諸検査の結果、原告の症状は右坐骨神経痛を伴う腰痛症と診断し、また腰椎間板ヘルニアがその原因となつている可能性がかなり強いと判断したが、この段階では右原因が明確であるとはいえなかつた。

被告は、右診断に基づき、本件注射すなわち硬膜外ブロック注射を実施することとした。被告は、従来から硬膜外ブロック注射は局所麻酔剤を注射液として採用したものであつても全く危険性がないと考えていたことから、原告の症状の経過を観察することなく、直ちに、刺激を受けている神経を消炎し鎮痛する目的で、原告を診察台の上に仰向けに寝かせて骨盤の下に枕を入れたうえで、デクタン(副腎皮質ホルモン)四・五ミリグラム、濃度〇・二五パーセントのマーカイン(局所麻酔剤)五cc、生理食塩水一〇ccを注射液とし、刺入点を仙骨裂孔(仙骨と尾骨との接合部にある孔)とする本件注射を実施した。被告は、本件注射に先立つ吸引テストにより脊髄液及び血液の逆流がないことを確認したのち、薬液を注入した。なお、被告は、本件注射を実施するにあたり、原告には、単に坐骨神経痛なので注射をすると説明しただけで、硬膜外ブロック注射を実施すること、その治療上の効果、注入薬品、本件注射の結果下肢の不全麻痺などが発生する可能性のあることは説明しなかつた。原告は、本件注射実施中右下肢に激痛を感じ、右下肢に神経麻痺が発生したので、被告に対し、被告がこれまで硬膜外ブロック注射を実施してきたさいに患者が訴えたことのある痛み(硬膜外ブロック注射を実施したさいには患者は通常痛みを訴える。)とは異なる異常な痛みを訴えたが(なお、本件注射実施の時点では、原告の右下肢に神経麻痺が発生したことは判明していなかつた。)、被告は、右のとおり、硬膜外ブロック注射は局所麻酔剤を注射液として採用したものであつても全く危険性がないと考えていたことから、右訴えを無視して本件注射を中止せずに続行した。被告は、本件注射実施後約一〇分間そのまま診察台に寝かせただけで診療室から退室させ、原告は、右退室後そのまま原告宅に帰宅した。

2  原告には、本件注射後も右下肢の激痛及び神経麻痺が残存した。そこで、原告の方から、被告に電話をかけて右足の激痛及び麻痺が残存している旨訴えたところ、被告はしばらく様子をみるように指示した。しかし、右症状は軽快せず、同日夜からさらに排尿も困難になつた(すなわち、本件注射直後に出現した膀胱直腸障害が顕在化した)。被告は、右下肢の神経麻痺や排尿障害の原因として薬液に細菌が混入していたために発生した化濃性炎症の発生を疑い、翌二八日、被告の方から原告宅に電話をかけて原告の状態を確認したところ、原告の状態には変化がない旨の回答を得た。さらに、被告は、同月二九日、原告宅に往診に行き、原告を診断したところ、最初に原告を診察したさいに存在した腰痛、右大腿の後方の放散痛すなわち坐骨神経痛の症状は消失しているものの、アキレス腱反射が低下し、第一、第二仙骨神経に知覚鈍麻、排尿障害が存在しているのを発見したので、椎間板ヘルニアではないかと考えたが、断定することはできず、化濃性炎症の可能性も払拭することができなかつたので、血液検査を実施した。右血液検査の結果によると、白血球数は化濃性炎症の所見を示すほどには多くなかつた。被告は、原告の症状をさらに調べるために、原告を同月三〇日以降被告病院に入院させた。被告が、右三〇日に原告を診察した結果、原告には第五腰神経、第一、第二仙骨神経の知覚鈍麻がみられた。なお、同日再度血液検査を実施したところ、白血球数が増加していないことが確認されたので、化濃性炎症の可能性は否定された。右三〇日の夜からは、左臀部より大腿にかけて異常知覚、神経痛様疼痛が新たに出現した。

同年一一月二日、当時大阪回生病院整形外科部長であつて被告病院において非常勤で診療を行つていた戸祭医師が原告を診察した。そのさい、原告の膝蓋骨から一〇センチメートル上の大腿部及び腓腸筋部(ふくらはぎ)の各両側の周径を測定したところ、大腿部については、右側が四四センチメートル、左側が四六センチメートル、腓腸筋部については、右側が三三センチメートル、左側が三四センチメートルであつて、いずれも右側に一センチメートル以上の萎縮がみられ、さらに、右下腿すなわち第五腰神経の知覚鈍麻、右足背部の知覚鈍麻があり、ラセギュー試験の結果は両側とも明瞭ではなく、膝蓋腱及びアキレス腱反射はともに消失していることが判明した。そこで、戸祭医師は、原告の第三、第四腰椎間にかなり大きな(すなわち、かなり多くの神経を圧迫するような)椎間板ヘルニアが発生していると診断したが、右の時点ではなお、発症が急であつて多くの神経が麻痺していることから、腫瘍の可能性のあることを払拭することはできなかつた。右一一月二日以後、被告は、原告に対し、牽引は行わず、安静にさせて経過を観察した。被告は、同月一〇日になつて、原告の症状が単純なヘルニアの症状とは異なるのでその病巣を解明するために、原告に、山本第三病院においてその全腰椎につきコンピューター断層撮影を受けさせたが、撮影の条件が悪かつたために、右撮影写真から原告の病巣を十分に判読することができなかつた。そこで、被告は、同月一一日、脊髄造影(ミエログラフィー)を受けさせる目的で、原告を大阪回生病院に転院させた。

3  大阪回生病院においては、原告に対し、同月一四日、一六日、一七日において各一回ずつ合計三回脊髄造影を実施し(ただし、そのうち一回は失敗した。)、右第三、第四腰椎間の椎間板ヘルニアと診断したうえで、同月一八日、第三、第四腰椎間椎弓切除術、椎間板ヘルニア切除術、硬膜切開術を行つたが、右手術における所見は、原告の第三、第四腰椎間、第四、第五腰椎間の各中央部、第五腰椎、第一仙骨間の左側にそれぞれ椎間板ヘルニアが存在し、そのうち、第三、第四腰椎間の中央部の椎間板ヘルニアが主な病巣であるというものであつた。

4  原告は、同五七年五月二一日に同病院を退院し、同月二四日以降同病院に通院して運動療法などを続けたが、同五八年二月三日になつて、同病院において、症状が固定したとの診断がなされたので、同日で同病院への通院を中止した。なお、原告は、同五七年一二月一日から七回針治療を受けたり、同年一月七日から同年四月二八日までマッサージを受けたりもした。

原告は、大阪回生病院における前記手術後疼痛は軽快したが、右症状固定後の同年七月二六日、大阪府の指定医師(身体障害者福祉法六条)によつて、原告の現症は、下肢挙上テスト両八〇、右足背屈不能、母指の運動不能、底屈三(底屈力が減弱したということである。)、足背から足底にかけて知覚鈍麻、右下踝跛行であつて、身体障害者福祉法別表四の1(第六級)に該当する旨の診断を受けた。

以上の事実が認められ〈る〉。

三次に、原告の本件注射時以降の症状(以下「本件症状」という。)の原因について判断する。

二でみた事実に、〈証拠〉を合わせれば、以下のとおり認定判断することができる。

1  本件症状は、複数の馬尾神経(脊髄の終末より下の脊髄神経を総称して馬尾神経という。)の麻痺により発生したものである。

原告の場合、昭和五六年一〇月中旬には既に第三、第四腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在し、その発生部位が中央部であつたので神経根の症状が典型的な腰部椎間板ヘルニアのように明確に現われていなかつたが、右大きな椎間板ヘルニアが腫瘍状に前方より硬膜を圧迫しており、硬膜の中にある馬尾神経が影響を受け、神経麻痺が発生し易い状態になつていた。

2  本件注射を直接脊髄に実施することは、注射針が脊柱管にさえぎられるので不可能である。また、本件注射の注射針を硬膜外腔の通過させて硬膜内にまで到達させ薬液を脊髄液中に混入させた場合は、本件注射の実施にあたり注射に先立つて行つた吸引テストのさいに脊髄液が吸引されるはずであり、かつ注射後即時に全脊麻(全身麻痺)が発生する確率が非常に高いが、右吸引テストのさい脊髄液は吸引されておらず、かつ注射後全脊麻は発生していないのであるから、本件注射の注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内にまで到達させ薬液を脊髄液中に混入させたものではない。したがつて、本件注射を直接脊髄に実施したこと、あるいは本件注射の注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内にまで到達させ薬液を脊髄液中に混入させたことを原因として、本件症状が生じたということはできない。

また、本件注射は、仙骨裂孔を刺入点として、通常の長さの注射針を使用して実施されたものであるから、距離的に、右注射針によつて本件症状の原因となつている神経を損傷することは不可能であり、かつ注射針によつて直接神経を損傷した場合は、当該損傷された神経(一本)のみに麻痺が発生するのであるが、本件症状は、右のとおり、複数の神経の麻痺により生じているのであるから、本件注射を実施したさいに、注射針によつて直接神経を損傷したことを原因として、本件症状を生じたということもない。

さらに、硬膜外腔は血管に富んでいるため、注射針によつてその血管を損傷することもまれではないが、被告は、本件注射を実施することに先立つて吸引テストにより血液の逆流がないことを確認したうえで薬液を注入しているうえ、血管の損傷による出血は通常は自然に止血して血腫を生じさせることはないのであるから、本件注射の結果血腫を生じさせる可能性はきわめて低く、大阪回生病院における前記手術所見に徴しても、本件注射の結果血腫が発生し、これが本件症状の原因であるとすることはできない。

3  本件注射時既に存在していた不完全な椎間板ヘルニアが本件注射に刺激されて脱出し、馬尾神経を圧迫したことが本件麻痺の原因であるとすることは、大阪回生病院における前記手術所見から、右椎間板ヘルニアが本件症状を生じさせるほど大きいものではなかつたことが読みとれるので、妥当ではない。

4  腰椎麻酔については、局所麻酔剤の作用により二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺が発生するとされている。硬膜外麻酔については、鑑定人である川田平医師(以下「川田医師」という。)の認識している範囲でも、局所麻酔剤の作用により不可逆性の神経麻痺が発生した症例があるとの報告はされていないものの、やはり、硬膜外麻酔についても、腰椎麻酔と同様の割合で局所麻酔剤の作用により不可逆性の神経麻痺が発生する可能性がある。

5  川田医師は、1ないし4の事情を根拠として、原告については、昭和五六年一〇月中旬には既に第三、第四腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在し、これが腫瘍状に前方より硬膜を圧迫しており、硬膜の中にある馬尾神経が影響を受け神経麻痺を発生し易い状態になつていたところに、本件注射により硬膜外に注入された局所麻酔剤であるマーカインが作用したことにより、複数の馬尾神経の麻痺が発生し、これが本件症状の原因となつたものと判断した。

以上のとおり認定判断することができ〈る〉。

右認定判断によれば、本件症状の原因は、川田医師の判断したとおり、昭和五六年一〇月中旬に既に原告の第三、第四腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在し、これが腫瘍状に前方より硬膜を圧迫しており、硬膜の中にある馬尾神経が影響を受け神経麻痺を発生し易い状態になつていたところに、本件注射により硬膜外に注入された局所麻酔剤であるマーカインが作用したことにより発生した複数の馬尾神経の麻痺であるといえる。

もつとも、この点につき、被告は、本件注射時既に発生していた不完全な椎間板ヘルニアが本件注射に刺激されて脱出し、馬尾神経を圧迫したことが本件症状ひいては原告の現在の症状の原因であると主張するが、右主張の理由のないことは既に3でみたとおりである。

四次に、被告の債務不履行責任の有無について判断する。

1  まず、被告の過失(注意義務違反)の有無を判断する前提として、過失(注意義務違反)の有無の判断基準について検討する。

医師は、人の生命及び健康を管理する医療行為に携わるものであるから、その行為の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を履行することが要求され、医師がこの義務に違反したことにより患者の生命または健康を害する結果を生じたときは、当該医師には法律上の過失(注意義務違反)があるといわねばならない。そして医療行為は、右医療行為のなされる当時の臨床医学の実践としての医療水準に従つてなされるべきであるから、医師は、その当時における医療水準に従つて医療行為を実施したかどうかによつて、その過失の有無が決定される。

ところで、臨床医学は、日々進歩してやまないものであつて、確固不動のものではなく、常に病理現象及びその治療方法に関する新たな仮説が生成発展するが、このような仮説は、まず医学界に検討課題として提起され、研究、討論の対象とされ、その中で客観的な評価に耐えうる数多くの症例数の累積や追試の成功を経て、学界で一応正当なものと認容されることがまず必要であり、さらに多くの技術や施設の改善、経験的な研究の積み重ねにより、臨床専門医の医療水準としてほぼ定着するに至つた段階で初めて、当該医師の行うべき臨床医学の実践としての医療水準に達したことになる。ただし、具体的事案における特定の医師の医療行為に対する過失(注意義務違反)の判断基準としての医療水準は、当該医療行為のなされた時期、当該医師の専門分野、当該医師のおかれた社会的、地理的その他の具体的環境(たとえば、当該医師が医療行為に携つている場所が、一般開業医院か、総合病院や大学医学部附属病院かといつた点)等諸般の事情を考慮して具体的に判断されなければならない。本件においては、被告は一般開業医院である被告病院において医療行為に携わつているものであるから、その過失(注意義務違反)の有無は、一般開業医院において、実践されている本件注射実施当時の医療水準によつて決すべきである。

2  そこで、右の観点に立つて原告の主張する被告の責任原因について検討する。

(一)  まず、責任原因一について検討する。

(1) まず、原告は、被告は十分な検査を実施せずに本件注射を実施することを決定した過失があると主張する。

しかしながら、二でみたとおり、被告は、初診時に、原告に対し、腰椎のレントゲン撮影を実施するとともに、神経学的検査として、大腿神経の緊張検査、ラセギュー試験を実施し、膝蓋腱及びアキレス腱反射の異常の有無、知覚障害の有無、足関節の背屈力の異常の有無を検査し、それによつて、レントゲン撮影においては異常はみられず、神経学的検査においては、大腿神経の緊張検査の結果がマイナスであり、ラセギュー試験の結果は、両側にラセギュー徴候が認められ、特に右側でラセギュー徴候が強かつたが、膝蓋腱及びアキレス腱反射が正常であり、知覚障害はなく、足関節の背屈力は正常であつて、知覚、運動麻痺の症状がみられなかつた、という検査結果を得たことから、原告の症状は右坐骨神経痛を伴う腰痛症と診断し、従来から被告においては硬膜外ブロック注射は局所麻酔剤を注射液として採用したものであつても全く危険性はないと考えていたため、原告の症状の経過を観察することなく、直ちに本件注射を実施することを決定したものである。〈証拠〉によれば、被告が原告の症状を右坐骨神経痛を伴う腰痛症と診断したこと自体は正しいといえることが認められる。そして、三でみた事実に、〈証拠〉を合わせれば、坐骨神経痛の場合に本件注射すなわち硬膜外ブロック注射を実施することは、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上特別な治療方法ではなく、治療方法の一つとして日常的に行われていたものであり、客観的には、硬膜外麻酔についても、腰椎麻酔の場合と同様に、局所麻酔剤の作用により二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があるとはいえるものの、腰椎麻酔については、局所麻酔剤の作用により二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺が発生することが文献にも記載され、一般開業医院の医療水準上一般的に認識されていたのに対し、硬膜外麻酔については、川田医師の認識している範囲でも、硬膜外麻酔を実施した結果不可逆性の神経麻痺が発生した症例があるとの報告はされておらず、硬膜外麻酔を実施した結果不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があることを指摘した文献もなかつたのであつて、本件注射実施当時の一般開業医院の水準において、原告のように腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在した場合に硬膜外麻酔を実施すると不可逆性の神経麻痺が発生する危険性があることまでは認識されていなかつたものであり、医師(一般開業医)が坐骨神経痛という診断を下せば、直ちに硬膜外麻酔を実施することを決定してよく、それ以上に腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在するか否かを検査する必要がないというのが、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準であつたと認められるから、被告は、本件注射を実施するにあたり、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上本件注射を実施するさいに必要とされる検査をすべて実施したといえる。

もつとも、〈証拠〉によれば、川田医師自身は、硬膜外麻酔を実施した場合には二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺が発生する危険性を考えて、初診時に硬膜外麻酔を実施せずに、経過観察をしたうえで治療方法を決定していることが認められ、これによれば、客観的には、被告も、原告の初診時に本件注射を実施せずに、原告の症状の経過を観察したうえで治療方法を決定した方が妥当であつたといえなくはないが、右でみたとおり、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上、原告のように腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在した場合に硬膜外麻酔を実施すると不可逆性の神経麻痺が発生する危険性のあることまでは認識されていなかつたのであつて、医師(一般開業医)が坐骨神経痛という診断を下したときには、直ちに硬膜外麻酔を実施してよく、それ以上に腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在するか否かを確認する必要がないというのが、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準であつたのであるから、被告が原告の症状の経過を観察することなく、直ちに本件注射を実施したことをもつて、注意義務に違反したものとまでいうことはできない。

また、〈証拠〉によれば、原告のように、腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在している場合、レントゲン撮影や神経学的検査によつて右ヘルニアの存在を確認することは非常に困難であつて、脊髄造影を実施しないと、右ヘルニアの存在を容易に認識することができないことが認められるが、〈証拠〉によれば、脊髄造影は副作用が発生する危険性もあるので、椎間板ヘルニアに対する手術を実施する場合に行うのが一般であり、硬膜外麻酔を実施するか否かを決定するためにこれを実施することは通常行われていないことが認められるから、被告が本件注射を実施するにあたり脊髄造影を実施しなかつたことをもつて、被告の行つた検査に遺漏があつたということはできない。

したがつて、被告に十分な検査を実施せずに本件注射を実施することを決定した過失があるということはできず、この点に関する原告の主張は理由がないというべきである。

(2) 次に、原告は、被告は、本件注射を実施するさいに、注射部位そのものを誤つて脊髄に注射したか、または、注射部位は正しいとしても、注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内にまで到達させてしまつたか、あるいは注射針を硬膜外腔にとどめたとしても、注射針により直接神経に損傷を与えた、などの手技上の過誤があると主張する。

しかしながら、既に三でみたとおり、本件注射を直接脊髄に実施することは注射針が脊柱管にさえぎられるので不可能である。また、三でみたとおり、本件注射の注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内に到達させて薬液を脊髄液中に混入させた場合は、本件注射の実施にあたり注射に先立つて行つた吸引テストのさいに脊髄液が吸引されるはずであり、かつ注射後即時に全脊麻(全身麻痺)が発生する確率が非常に高いが、右吸引テストのさい脊髄液は吸引されておらず、かつ注射後全脊麻は発生していないのであるから、本件注射の注射針を硬膜外腔を通過させて硬膜内にまで到達させ薬液を脊髄中に混入させたものではない。また、三でみたとおり、本件注射は、仙骨裂孔を刺入点として、通常の長さの注射針を使用して実施されたものであるから、距離的に、右注射針によつて本件症状の原因となつている神経を損傷することは不可能であり、かつ注射針によつて直接神経を損傷した場合は、当該損傷された神経(一本)のみに麻痺が発生するものであるところ、本件症状は、複数の神経の麻痺により生じているのであるから、本件注射を実施したさいに、注射針によつて直接神経を損傷したものではない。

そうすると、被告が本件注射を実施するさいして、原告の主張するいずれの過誤もおかしていないと認められるので、この点に関する原告の主張は理由がないというべきである。

(3) さらに、原告は、被告は、初診時に原告の症状を腰椎間板ヘルニアの可能性を有する坐骨神経痛と診断したが、実際は原告の第三、第四腰椎間に腫瘍状のヘルニアが発生していたところ、このような場合には、医師としては、かりに右原告の症状を正確に認識することができなかつたとしても、原告をいつたん入院させて一定期間経過観察をしたうえで、原告の治療方法を決定すべきであり、かつ治療方法として注射を選択した場合には、注射液には副作用の少ないステロイド剤などを採用し、さらに注射にさいしても患者に異常を認めた場合は注射を中止し、かつ適切な措置をとるなどしてできる限り神経麻痺の発生を防止すべき注意義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り、初診時にいきなり薬液作用の強い麻酔剤(マーカイン)を注射液に含む本件注射を実施し、かつ本件注射実施中原告が再三異常な痛みを理由に本件注射の実施を中止するように訴えたのを無視して本件注射を中止せずに続行した過失があると主張する。

被告が経過観察を行わずに本件注射を実施したことに過失があるとはいえないことは、既に(1)でみたとおりである。

本件注射につき、被告が注射液としてステロイド剤を採用せずに局所麻酔剤であるマーカインを採用した点については、なるほど〈証拠〉によれば、川田医師自身は、硬膜外ブロック注射を実施する場合には、注射液として局所麻酔剤を採用すると二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺が発生する危険性があることを考えて、神経麻痺発生の危険性のないステロイド剤を注射液として採用していることが認められるが、他方右証言によれば、局所麻酔剤は鎮痛作用が非常に強いという利点があるのに対し、ステロイド剤には消炎作用はあるが鎮痛作用はなく、かつステロイド剤には細菌感染を助長する欠点があることが認められ、また、(1)でみたとおり、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上、原告のように腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在した場合に硬膜外麻酔を実施すると不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があることまでは認識されていなかつたのであるから、被告が注射液としてステロイド剤を採用せずに、局所麻酔剤であるマーカインを採用したことをもつて、注意義務に違反したものということはできない。

次に、本件注射実施中原告が再三異常な痛みを理由に本件注射の実施を中止するように訴えたにもかかわらず、被告が右訴えを無視して本件注射を中止せず続行した点については、なるほど、二でみたとおり、原告は、本件注射実施中、被告に対し、被告がこれまで本件注射を実施してきたさいに患者が訴えたことのある痛みとは異なる異常な痛みを訴えたのに、被告は、硬膜外ブロック注射は局所麻酔剤を注射液として採用したものであつても全く危険性がないと考えていたことから、右訴えを無視して本件注射を中止せずに続行したことは、確かに認められる。しかしながら、(1)でみたとおり、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上、原告のように腰椎間の中央部に大きな椎間板ヘルニアが存在した場合に硬膜外麻酔を実施すると不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があることまでは認識されていなかつたのであるから、被告が、硬膜外ブロック注射は局所麻酔剤を注射液として採用するものであつても全く危険性はないと考え、原告の訴えを無視して本件注射を中止せず続行したことをもつて、注意義務違反とまで評価することはできない。

そうすると、右いずれの点についても被告に過失があるということはできないので、これらの点に関する原告の主張は理由がない。

(4) 次に、原告は、被告が原告に対し、本件注射について説明しなかつた過失(説明義務違反)があると主張する。

一般に医師は、医療行為を行うにさいし、その医療行為により一定の蓋然性をもつて生命身体などに重大な結果を招くことが予想される場合は、当該患者に対し、治療方法の内容及び必要性、発生の予想される危険などについて、当時の医療水準に照らし相当と考えられる事項を説明し、当該患者がその必要性や危険性を十分比較考量のうえ右医療行為を受けるか否かを決定することを可能ならしめる義務があるものと解するのが相当である。

これを本件についてみると、(1)でみたとおり、客観的には、硬膜外麻酔についても、腰椎麻酔の場合と同様に、局所麻酔剤の作用により二〇〇〇例ないし三〇〇〇例に一例の割合で不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があるといえるのであるが、本件注射実施当時の一般開業医院の医療水準上、硬膜外麻痺を実施すると不可逆性の神経麻痺の発生する危険性があることまでは認識されていなかつたのであるから、被告が、本件注射を実施するにあたり、本件注射により不可逆性の神経麻痺の発生する危険性のあることを説明すべき義務はないものというべきである。

また、被告は、二でみたとおり、本件注射を実施するにあたり、原告に対し、単に坐骨神経痛なので注射をすると説明しただけで、硬膜外ブロック注射を実施すること、その治療上の効果、注入薬品について特に説明しなかつたことが認められるが、患者に当該医療行為を受けるか否かを最終的に決定させるためには、当該医療行為の内容を詳細に説明する必要はなく、また医学的知識の十分でない患者に右医療行為の内容を説明しても理解を得ることが困難であつてかえつて無用の誤解を招く危険があるから、単に注射を実施すると説明するだけで十分であり、特に硬膜外ブロック注射を実施することやその使用する薬品を説明する必要はないといえるのであり、また被告は本件注射を実施するにあたり、原告に対し、坐骨神経痛なので注射すると説明したのであるから、原告は本件注射が坐骨神経痛の鎮痛を目的としていることを十分認識することができたといえるのであつて、被告が本件注射実施にあたり、右以上にことさら治療上の効果を明示的に説明する必要はないといえる。したがつて、被告が本件注射を実施するにあたり、原告に対し、単に坐骨神経痛なので注射をすると説明しただけで、硬膜外ブロック注射を実施すること、その治療上の効果、注入薬品について特に説明しなかつたことをもつて、説明義務に違反したものということはできない。

そうすると、被告に本件注射について説明をつくさなかった過失(説明義務違反)がある旨の原告の主張は結局失当である。

(二)  次に、責任原因二について検討する。

原告は、被告は、本件注射実施後の経過観察を全く行わず、かつ原告に生じた馬尾神経の麻痺に対する適切な措置をとらなかつた過失があり、右過失と馬尾神経の麻痺の固定化との間に因果関係があると主張する。

二でみたとおり、被告は、本件注射実施後約一〇分間そのままの状態で診察台に寝かせただけで診療室から退室させたと認められる。そして、〈証拠〉によれば、硬膜外麻酔を実施した場合には、麻酔剤が組織に吸収されるまでに約二〇分ないし三〇分間を要するところ、右麻酔剤が組織に吸収される以前に患者が体を動かした場合は、麻酔剤が意図した場所に集中せずに広範囲に広がり、麻痺が生じる範囲が意図した範囲を越えて広がる危険性があり、したがつて、硬膜外麻酔を実施した場合には実施後患者を約三〇分間安静にすることが妥当であることが認められる。これによれば、被告の右措置は妥当ではなかつたということができる。

しかしながら、本件全証拠によつても、右被告の措置が前記原告の馬尾神経の麻痺に影響を与えたことを認めることはできず、かえつて、〈証拠〉によれば、少なくとも右被告の措置が前記原告の馬尾神経の麻痺に根本的な影響を与えてはいないことが認められるので、右被告の措置と本件症状との間の因果関係を認めることはできないというべきである。

したがつて、右原告の主張は失当である。

(三)  よつて、責任原因一の主張については各過失が、同二の主張については因果関係がそれぞれ認められないのであるから、この点についての原告の主張はいずれも理由がない。

五結論

以上の次第で、責任原因一、二の存在を前提とする原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官岨野悌介 裁判官富田守勝 裁判官中村也寸志)

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